フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini, 1920年1月20日 - 1993年10月31日)は、イタリア・リミニ生まれの映画監督、脚本家。「映像の魔術師」の異名を持つ。経歴
フェリーニは1920年1月20日、イタリアのリミニで生まれた[3]。リミニの高校在学中には古都フィレンツェの新聞に漫画のはがき投稿をしていた[4]。高校卒業後、1939年に首都ローマの「イル・ピッコロ」紙に勤務し、やがて「マルク・アウレリオ」紙に移った[5]。マルク・アウレリオ紙はユーモア紙であり、フェリーニはここで漫画やコラムを書き、記者として経験を積んでいった。やがて1942年になると記者の他、ラジオドラマの放送作家としての脚本の仕事が増えていった[6]。1943年には、このラジオ番組で知り合ったジュリエッタ・マシーナと結婚している[7]。
1944年、ローマが連合国軍の制圧下に入ると似顔絵屋を開いて生計を立てていたが、映画監督ロベルト・ロッセリーニがこの店を訪れ、映画シナリオへの協力を頼んだことが、フェリーニの映画人生の始まりとなった[8]。この映画『無防備都市』は1945年に公開され、イタリア・ネオレアリズモ映画を世界に知らしめた記念碑的作品となり、フェリーニはロッセリーニの次回作である『戦火のかなた』でも脚本を担当した[9]。フェリーニは1952年までラジオドラマ時代も含めると10年間、映画単独でも7年間脚本家としての仕事を続けたものの、徐々に脚本よりも映画制作に興味を示し始めた[10]。
こうして1950年、フェリーニは『寄席の脚光』でアルベルト・ラットゥアーダとの共同監督にて監督デビューを果たした[11]。1952年の『白い酋長』ではじめて単独監督を務めた[12]。この作品で音楽監督として起用されたニーノ・ロータは、『オーケストラリハーサル』に至るまでのすべてのフェリーニ作品で音楽を手がけることになる。三作目となる『青春群像』(1953年)では故郷の街とそこで生きているどうしようもない青年達の姿を描いてヒットを飛ばし、ネオレアリズモの若き後継者として注目されて、ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した[13]。続く『道』(1954年)では甘美なテーマ曲と物語の叙情性とヒューマニズムから世界的なヒット作となり、フェリーニの国際的な名声が確立する[14]。1955年の崖は不評だったものの、1957年の『カビリアの夜』は再び高い評価を得た[15]。
ネオレアリズモ的作風に変化が現れるのは『甘い生活』(1959年)からとされる[16]。退廃的なローマ社会を描いたこの作品はフェリーニの力強い社会批判であるが、ヘリコプターで吊るされた巨大なキリスト像の冒頭シーンや、河から引き上げられた怪魚のラストシーンに顕著なように、ストーリーの随所にシンボルが配置されて独特の映像感覚が発揮される。この作品は高い評価を得て、1960年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したものの、カトリック教会などから退廃的だという強い批判を浴び、いくつかの国では上映中止に追い込まれた[17]。『甘い生活』で使用された手法は『8 1/2』(1963年)で極度に推し進められ、「映画が撮れなくなった映画監督」の話を借りてフェリーニの内面が赤裸々かつ高度なシンボル的映像表現で綴られることになる。
その後もチネチッタ・スタジオに巨大なセットを組み、『サテリコン』(1968年)、『フェリーニのローマ』(1972年)、『フェリーニのアマルコルド』(1973年)、『カサノバ』(1976年)、『オーケストラ・リハーサル』(1979年)、『女の都』(1980年)、『そして船は行く』(1983年)など、重層的で夢幻の広がりを与える手法を駆使した作品群を立て続けに監督。いつしか世界の映画製作人から「スタジオの魔術師」と呼ばれることになる。
『道』、『カビリアの夜』、『8 1/2』、『フェリーニのアマルコルド』で4度のアカデミー賞外国語映画賞を、1992年にはアカデミー賞名誉賞を受賞した[1]。
1993年に脳内出血で倒れ、同年10月31日、心臓発作で死去。73歳。その葬儀はローマのサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会(it)にて国葬として執り行われたほか、チネチッタと故郷の町・リミニでも葬儀が行われ[18]、リミニの墓地に埋葬された。
妻のジュリエッタ・マシーナは駆け出し時代の彼のラジオドラマに出演し、『道』、『カビリアの夜』、『魂のジュリエッタ』、『ジンジャーとフレッド』などにも主演した。
作品の評価- 『フェリーニのローマ』では、ローマ外環道路の交通渋滞を巨大な屋内セットによって再現したというぐらいに、中期以降のフェリーニはスタジオ撮影にこだわった。セット撮影を排したネオレアリズモ映画を出発点としながら、巨大なセット撮影を駆使して人工美の世界を構築したという点で、やはりネオレアリズモ映画出身だったルキノ・ヴィスコンティと並び称されることも多い。だが、本物の貴族出身だったヴィスコンティの華麗な絵作りに対してフェリーニの作品にはモダンアートの明るさと庶民的な俗っぽさが満ち溢れている。こうした絵画的感覚についてはイタリア・オペラの伝統を指摘する声もある[要出典]。
- フェリーニ映画には巨乳巨尻の女性が多く出てきて「フェリーニ的」画面を構成する。猥雑な女たちの娼館や道化師のサーカスはフェリーニのお得意素材である。
- ペシミストとしても語られはするが、基本にあるのは生きていく意志である。『8 1/2』のラストシーンでの有名な台詞「人生は祭りだ。共に生きよう」はそれを端的に言い表している。それは『道』の中で悲惨な境遇にあるヒロインに向かって語られた「どんな物でも何かの役に立っている。この石ころだって」という台詞から一貫したフェリーニのヒューマニズムでもある。
フィルモグラフィー[編集]監督作品[編集]※すべての監督作品で脚本を兼任。
長編映画
- 寄席の脚光 Luci del varieta(1950年) - 製作も
- 白い酋長 Lo Sceicco bianco(1952年)
- 青春群像 I Vitelloni(1953年)
- 道 La Strada(1954年)
- 崖 Il bidone|Il Bidone(1955年)
- カビリアの夜 Le Notti di Cabiria(1957年)
- 甘い生活 La Dolce Vita(1960年)
- 8 1/2 Otto e mezzo(1963年)
- 魂のジュリエッタ Giulietta degli spiriti(1965年)
- サテリコン Fellini-Satyricon(1968年)
- フェリーニの道化師 I Clown(1970年) - 出演も
- フェリーニのローマ Roma(1972年) - 出演も
- フェリーニのアマルコルド Amarcord(1973年)
- カサノバ Il Casanova di Federico Fellini(1976年) - 美術も
- オーケストラ・リハーサル Prova d'orchestra(1979年)
- 女の都 La Citta delle donne(1980年)
- そして船は行く E la nave va(1983年)
- ジンジャーとフレッド Ginger e Fred(1985年)
- インテルビスタ Intervista(1987年) - 出演も
- ボイス・オブ・ムーン La Voce della luna(1990年)
オムニバス映画
- 結婚相談所 Un Agenzia matrimoniale(1953年) - 『巷の恋』の第4話
- アントニオ博士の誘惑 Le tentazioni del dottor Antonio(1962年) - 『ボッカチオ'70』の第2話
- 悪魔の首飾り Toby Dammit(1967年) - 『世にも怪奇な物語』の第3話
そのほかの作品[編集]- 無防備都市 Roma, città aperta(1945年、ロベルト・ロッセリーニ監督) - 脚本
- 戦火のかなた Paisa(1946年、ロベルト・ロッセリーニ監督) - 脚本
- アモーレ L'Amore(1948年、ロベルト・ロッセリーニ監督) - 脚本・出演
- ポー河の水車小屋 Il mulino del Po(1949年、アルベルト・ラットゥアーダ監督) - 脚本
- 越境者 Il cammino della speranza(1950年、ピエトロ・ジェルミ監督) - 脚本
- 神の道化師、フランチェスコ Francesco, Giullare di Dio(1950年、ロベルト・ロッセリーニ監督) - 脚本
- 街は自衛する La città si difende(1951年、ピエトロ・ジェルミ監督) - 脚本
- ヨーロッパ一九五一年 Europa '51(1952年、ロベルト・ロッセリーニ監督) - 脚本
- あんなに愛しあったのに C'eravamo tanto amati(1974年、エットーレ・スコラ監督) - 出演